まえがき

二十一世紀を迎えて五年目に入り、戦後六十年という節目を迎えました。あらためて日本がどのような道を歩んできたかを振り返り、過去からの教訓を将来の日本に活かしたいという国民の強い思いが、政治、経済、教育をはじめ、すべての領域での議論を活発にし、世界の国々もこれからの日本がどのように変わっていくかに大きな関心を寄せています。
私は精神科医という職業柄、四十五年間、心の病を通して日本という国のありょうをみてきました。とくに一九七O年からは、もっぱらアルコール依存症の治療にとり組むようになり、アルコール関連疾患の患者さんやその家族とともに、回復者による自助グループである断酒会やAAの人たちとの交わりをもってきました。
アルコール依存症は、精神疾患の中でもとりわけ時代や社会に強く影響される疾患です。戦後わが国の経済発展は国民アルコール消費量の増大を促し、それにともなってアルコール関連問題もますます深刻な様相を呈してきました。オイルショックのあとには、中小企業の経営者でアルコール依存症になる人が増えたことがありましたし、最近では定年退職後に依存症になる人が急増しています。
高齢者ばかりではありません。若年者にも女性にも男女別なく、あらゆる年令層にアルコール依存症が浸透してきました。
また、依存症はアルコールばかりでなく、薬物、ギャンブル、買物依存症などのように、その裾野は大きく広がってきています。
さらに摂食障害、不安障害、抑うつ反応などのように、これまで内因性といわれてきた精神病の周辺に位置する疾患のいちじるしい増加は、病気と健常との境界を不明確にし、診察室の様相を一変させてきました。
このような、いわば境界域の心の病の増加は、現代の社会病理を映し出す鏡でもあります。

世界は二十世紀前半、二度の世界大戦をくり返し、後半には自然科学はいちじるしい進歩を遂げ、技術文明はIT革命をもたらし、その中でわが国は経済大国になり、物質的には未曾有の豊かさに恵まれるところまできました。科学技術は人類にこの上ない恩恵をもたらしましたが、一方では核兵器をはじめ、地球環境問題、クローン技術、臓器移植など、多くの倫理社会問題をもひき起こしてきました。さらにいまなお続く宗教、イデオロギーの対立が現代を覆う不安を増大させ、バブル崩壊前後からはメンタルヘルスへの関心が徐々に高まり、”一十一世紀は心の世紀”だともいわれるようになりました。
一精神科医の眼を通して現代をみるとき、技術文明の暴走ともみえる状況に人類は歯止めをかけることができるのか――はなはだ疑問に思わずにはおれません。

アルコール依存症は身体だけでなく、人聞から理性を奪い、自己中心に陥れ、限りなく心身を破壊し尽くしていく病です。いったん飲酒をコントロールする能力を失った身体は、現代医学をもってしても、再び節度ある飲酒ができるようになることはなく、この病からの凪復の道は、完全に酒を断って新しい生き方をみずから創造していく以外にありません。
これは、くり返し飲酒欲求に襲われる自己との闘いであり、酒を断って新しい人生を模索し、創造する苦難の道でもあります。
この難事業を一人でまっとうすることはとても困難で、一九三五年にはアメリカでAAが誕生し、この影響を受けてわが国でも一九六三年に全日本断酒連盟が結成されました。これら自助グループの誕生はアルコール医療に福音をもたらしました。
私は、自助グループの仲間の中で回復していく数多くのアルコール依存症の人たちの生きざまを通して、人間が生きていくにはなにがもっとも必要で大切なのか、生きがいや人生の深いよろこびはどこから生まれてくるのかを学んできました。

この本の最後で紹介する精神科医V・E・フランクルは、現代人の精神病理を「実存的空虚」と言い当てています。現代に生きる私たちがここから脱出するには、もう一度精神的(スピリチュアル)な世界に回帰するほかないというのが、現代人の不安に向けた私の処方筆です。
第一部では、アルコール依存症という病気と治療と回復のすべてを紹介し、第二部では、自助グループの人たちがなにを求め、伝えようとしているのかを、自助グループの人々だけでなく、広く一般の人たちにも知ってもらいたいと思って書いています。第三部は、地域精神医療の先駆けとしての役割を果たしてきた自助グループの社会的意義――メンタルヘルス復興への鍵――と現代に生きる人の不安への処方筆を提示してみました。
この本が、アルコール依存症の予防、治療、回復に役立ち、さらに一般の人びとのメンタルヘルスの増進に寄与することができれば幸いです。

平成十七年六月
今道裕之

株式会社 東峰書房 〒102-0074 東京都千代田区九段南4-2-12
TEL 03-3261-3136/FAX 03-3261-3185

ピックアップ記事

  1. アルコール依存症は人を孤独に追い込む病気 「あのころは一生懸命突っ張っていましたね、まったく素直じ…
  2. 家族平衡身体疾患の場合とはちがって、心の病気では人間関係にゆがみを生じてくるので、とくに生活を共にす…
  3. むずかしい早期診断 いかなる病気も早期に発見して早期に治療するにこしたことはありません。身体の病気…
  4. アルコール蔓延社会 人類がいつどのようにしてアルコール飲料を発見したのかは明らかではありませんが、…
  5. 一九八八年、小林哲夫さん(全日本断酒連盟高知県断酒新生会会長、作家)から共著を出さないかとのお誘いが…
ページ上部へ戻る