早期治療の問題

むずかしい早期診断

いかなる病気も早期に発見して早期に治療するにこしたことはありません。身体の病気の場合は、ここ数十年のあいだに診断技術はいちじるしく進歩し、さまざまな検査を駆使して早い段階で診断ができるようになり、健康診断のシステムも整い、最近ではガンさえも以前ほどこわい病気ではなくなってきています。
しかし心の病気に関しては、原因が身体にある場合を除けば、検査機器を使って診断したり、客観的な数値で判断できるものではありませんから、早期診断がむずかしいところがあります。また健康診断で精神疾患をチェックする術が乏しく、患者さん自身も早い段階で病気を自覚して受診することがなかなかできないところがあります。
アルコール依存症も例外ではありません。この場合いくつかの理由が考えられます。
先に述べたように、普通の飲酒行動と病的な飲酒行動との境界が不明確なために、問題に気づきにくいのです。同居している家族さえ気づかないほどに潜行します。「酒飲みはみんなこんなものだと思っていた。気がつけば完全な依存症になっていた」という言葉は、本人ばかりでなく、家族からもよく聞かれます。
依存症のはじまりを明確にするのはむずかしいので、発症は身体と心とどちらが先かという質問には厳密に答えることはできないのですが、一般にほとんどの患者さんや家族は、身体の病気のほうに早く気づきます。したがって身体面にばかり目が向き、飲酒自体の問題を軽くみるようなところがあります。精神疾患を併発しているときも同じで、うつ病や神経症、不安障害の仮面を被っていることもよくあります。
三つ日に、この病気特有の症状といってもよい、「否認」という問題があります。酪町状態にあるときの言動は忘れてしまっていることが多い上に、心理的にも過去の?りい体験は抑圧されていることが多いものです。さらに、まわりの人たちの厳しい叱責や非難の言葉で完全に孤独になっている心理状態では、逆に突っ張ったり攻撃的になったりするしかありませんから、ついには本気で自分は依存症ではないと考えるようになります。
また、この病気に対する一般社会の誤解や偏見も大いに関係しています。いまでもなお、一般には”アル中”という呼び方がされており、この言葉には、社会倫理的なニュアンスが込められており、昼間から酔っ払って路上に寝転んでいたり、他人に迷惑をかけたりして警察の厄介になるような人と思われています。したがって、そのような人間ではないと強く否認したくなるのも当然です。

遅れている早期発見・治療対策

十年程前に発表されたある調査によれば、アルコール依存症が強く疑われる問題飲酒者でありながら、消化器疾患などのために内科に入院している患者は年間百十九万人いると報告されています。最近の医学生向けの教科書には、アルコール依存症についても、また治療としては自助、グループが有効であることもきちんと述べられていますから、一般科の医師も、アルコールに問題があると思えば、比較的早い段階で専門医に紹介するようになってきています。しかし、多くの患者さんは専門医のところにやってこないか、来るとしてもすぐに精神科にはこないのです。半年前の日づけのついた、敏くちゃの紹介状を持ってくる患者さんもよく見受けます。
平成十六年、厚生労働省の研究班「成人の飲酒実態と関連問題の予防に関する研究」が、三年をかけて詳細な全国調査を行った結果を発表しています。それによれば、アルコール依存症は成人男性の一・九%(成人人口百人に二人)、女性0・一%(千人に一人)、全体で0・九%(八十二万人)と発表しました。このうち精神科に受診している人は、全国の精神科ベッド数や通院患者数、全日本断酒連盟実働会員数などから推計すると、多く見積もっても二十万人を上回ることはありません。つまりわが国では、この病気の早期発見・治療に関する対策がいかに遅れているかを一不す数字です。
もう少しわかりやすくするために、私が勤めている病院の地元についてみてみましょう。
大阪北東部の北摂地区と呼ばれるところで、郊外の四つの衛星都市と一つの町からなる、成人人口約百万の地域です。先の計算でいけば、約一万人のアルコール依存症の人がいることになります。アルコール専門病棟を持っている病院は一ヵ所(六十床)だけで、この地域から新しく受診する患者さんは年間二百人弱です。四市、一町にそれぞれ断酒会があり、断酒会員は総勢百三十名ほどです。この地域内にはAAグループ(アルコホリクス・アノニマスH米国で誕生したアルコール依存症者の会)も五ヵ所ありますが、正確なメンバー数はわかりません。メンバーからの情報によれば三、四十名と思われます。
つまり、一万人の依存症のうち、精神科で治療を受けた人は多く見積もっても二千人(二割)を超えることはなく、自助、グループに参加している人は約二%しかいません。いかに多くの人が一般科に留まっているか、または未治療のままであるかがわかります。

自助グループ参加が治療の根幹

われわれは平成六年から、大阪府下の内科と精神科の有志で「アルコール関連内科疾患と依存の研究会」を重ねてきましたが、小規模な有志の力だけでは、早期発見・早期治療をめざす対策はなかなか一般医療界に広く影響を与えることができません。残念ながら本研究会は、平成十五年に閉会しました。
この社会的に重大な問題の解決には、まず大学病院でのアルコール問題・関連疾患に関する教育システムの改革が必要です。アルコールは消化管から吸収され、肝臓を通って全身の臓器をめぐるのですから、あらゆる臓器を侵害していきます。したがって、ほとんどすべての臓器障害の背景には大量飲酒や依存症の問題が絡んでいますから、アルコール依存症は精神科に限定される疾患ではなく、臨床全科にまたがる全身疾患ととらえるべきです。
たとえば、肝疾患の患者さんが内科に受診したとします。問診と触診、生化学検査などにより、アルコール性の肝障害かどうかは簡単に診断できます。アルコールが原因とわかれば、当然、医師は酒をやめるか飲酒量を控えるよう指示します。さらに、その飲酒がどのような性質のものか、依存症と診断すべきような状態なのかどうかまで鑑別し、依存症が強く疑われるなら、断酒を指示するなり、精神科に紹介すべきでしょう。アメリカでは、内科医がCAGE(後述)という簡単な問診表を用いて、依存症の診断に役立てています。

アルコール依存症の基本症状は、「飲酒をコントロールする能力の障害」といってもよいので、治療としては完全にアルコールを飲まない生活を維持していかねばなりません。多少とも酒好きの人なら誰しも経験のあるところですが、いかなるときであってもアルコールを一滴も口にしないで生きていくのは大変なことです。しかし、依存症の人はこの難事業を実行していかねばならないのです。そのためには、この病気について十分に理解を深めることと、どうしても一人で長期間断酒を継続することができなければ――実際にできる人はほとんどいない――、断酒会やAAのような自助グループに参加すると成功率が高くなります。
言い換えれば、正確な疾病教育を行い、自助グループへの参加を奨励することが治療の根幹です。
糖尿病を例にとればわかりやすいかもしれません。消化器内科では、教育入院を行っている病院がたくさんあります。疾病教育を行い、服薬、注射の自己管理の仕方を実習し、栄養指導を徹底し、家族にもカロリー制限食の献立を実地教育します。
アルコール依存症の場合も同様に、精神症状を認めないかぎり、いま言った程度の治療は内科においても十分に可能なことではないかと思います。大阪には従来からアルコール専門の精神科病院(新生会病院・和泉市)、アルコール専門の内科病院(小杉記念病院・柏原市)がありますが、先に述べたわれわれの研究会のメンバーでもある、大阪市内二ヵ所の総合病院消化器内科(西淀病院・大正病院)では、これを実践してかなりの成果を上げているのです。

EAP(従業員援助プログラム)の活用

同じような問題は、産業医の領域でもみられます。従業員の健康診断は定期的に行わねばならないことになっており、検査項目の中には肝機能検査も含まれています。したがって肝機能に異常がみられると、医療機関で精密検査を受けることを指示されますが、アルコール性肝障害であることがわかっても、専門医療機関への受診をつよく勧める職場はまだわずかです。専門医療機関に受診することには、本人も抵抗を示します。
日ごろの勤務状況から依存症がつよく疑われる場合には、職場の診療所の保健師や看護師が本人を根気づよく説得して専門家に紹介・受診させるケースが多いようです。また、アルコール性の疾患で内科に入院しても、診断書にアルコール性という文字が入ることには本人や家族が抵抗するため、肝障害、慢性肝炎、糖尿病といったようなお座なりの病名が記入されます。そのため、職場ではいつまでもアルコール問題に気づかない場合もあります。
また、職場では健康教育の一環として、アルコール関連疾患に関する講演会を催すことがありますが、上司の話では、依存症が疑われ講演を聞いて欲しい人ほど出席してくれないのだそうです。
アルコール問題に限らず、一般に心の病気の場合には、人間関係や社会生活に多少ともひずみが生じてきます。また、一般社会には、精神疾患に対する誤解や偏見が根づよく残っていますから、患者さんや家族が「できれば世間には知られたくない、職場でも偏見の目でみられたくない」と考えるのは当然のことです。個人情報の漏洩には人権問題が絡んできますから、企業側としても医療機関としても、慎重に対応していかねばなりません。
そういう考えから、アメリカでは早くからEAP(従業員援助プログラム)というシステムができています。最近では、わが国でもEAPをもっ企業が生まれてきましたが、まだほんのわずかです。EAPは、従業員の抱えるアルコール問題をはじめ、さまざまなメンタルヘルスに関する問題や悩みの相談にのることを目的としています。わが国では、従来から保健所や都道府県の精神保健福祉センターにいる精神保健福祉土や保健師がこの種の相談に応じていますが、それらは個人的なレベルのもので、EAPのように、企業との契約にもとづいて社員の健康管理を行うというものではありません。
わが国でも、久里浜アルコール症センター(わが国ではじめてアルコール専門病棟を開設した前国立療養所久里浜病院)内におかれているアルコール関連問題予防センターでは、プレアルコホリック(ごく初期の段階または潜在性の依存の状態にある者)に対するとり組みを実施し、また医療、行政、学校、保健所、職場などの幅広いネットワークの関係者に対する研修も行っています。

CAGE

1.飲酒量を減らさなければならないと感じたことがありますか。
2.他人があなたの飲酒を非難するので気にさわったことがありますか。
3.自分の飲酒について悪いとか申し訳ないと感じたことがありますか。
4.神経を落ちつかせたり、二日酔いを治すために、「迎え酒」をしたことがあります

* このうち二項目以上「はい」と答えた人はまちがいなく依存症である。

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